その夜は沼辺の旅店に泊つた

その夜は沼辺の旅店に泊つた。潮田さんと松本さんは、昼の疲労で別室へ行つて寝てしまつた。翁は寝床の上に端坐して深い瞑想に沈んで居る。僕も坐つたまゝ翁の容子《ようす》を見守つて居た。行燈《あんどん》の灯がほのかに狭い室を照して、この世のさながら「無」の如き静寂。何程の時を経たであらうか。『政治をやつて居る間に、肝腎の人民が亡んでしまつた』一語、煙のやうに翁の唇頭を洩れた。かくてまた何程の時を経たであらうか。翁は何か物に驚いたやうに、フイと顔を上げて見廻はしたが、僕が未だ起きて坐つて居たので『や、これは/\』と言ひざま、山のやうな体躯を、どたりと倒れるやうに横たへて、すぽりと夜具を顔までかぶつてしまつた。僕も枕に就きはしたが、水のやうに気が澄んで、眠ることが出来なかつた。若き友よ。田中翁を思ふ時、僕の目には必ずこの夜の光景が浮ぶ。爾後十年の翁の新生活「人の子」田中正造の偉大な世界は、この夜の独語の奥に、芽ざして居たやうに思はれる。[#地から2字上げ](昭和八年四月)

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