忘れ得ぬ翁の独語

   忘れ得ぬ翁の独語

田中翁の手紙にあつた「東京御婦人の慈善心云々」と云ふのは、翁の直訴前に出来た「鉱毒地婦人救済会」のことだ。三十五年の二月の或日、この救済会の潮田千勢子と云ふ老女が食物衣服など車に輓《ひ》かせて、鉱毒地の見舞に出掛けた。僕も一緒に行つた。潮田さんは六十であつたらう。この日は船津川高山など云ふ被害の劇甚地を廻つた。大雪の翌日で、日は暖かく照つて居たが、殆ど膝へまで届く雪の野路を、皆な草鞋《わらぢ》ばきで踏んで歩いた。田中翁が例の黒木綿の羽織に毛繻子の袴を股立高く取つての案内役だ。案内役とは言ふものの、かく一軒々々訪問して、親しく人々家々の事情を聴いて廻はると云ふことは、この人にしても始めての事だ。潮田さんの秘書役をして居た松本英子と云ふ婦人記者が一々|委《くは》しく書きとめたものがある。今その二つ三つをこゝに載せる。[#ここから1字下げ]「高山の三十七番地茂呂作造(五十八)妻きは、長女さく(二十四)次女きよ(十)の四人暮し。妻きは語りて曰ふ、元は相応の農家でしたが、今は鉱毒で何も穫れません。心配ばかりして居るので、眼が悪るくなつて、両方共かすかに見えますけれど、着物の縞も見えやんせん。眼でも良けりや、何か出来るけれど――やつと火だけはソロ/\焚きやんすが、針が一と針出来るぢや無し――父ツさんは年取つて腰が痛いしするが、稼《かせ》がなけりや食べられないで、無理べえして稼いで居やんす。目の見える人は思ひやりがありやんせん。自分が見えるもんだから、何をせう彼をせうと言はれるたびに、私は身を切られるやうに思ふんでやんす――」「船津川字中砂、川村新吉(四十五)の家族。女房は田畑に物が出来なくなつたを気にして、血病のやうにブラ/\わづらつた末、三年前に死んだ。跡に新吉は三人の子供を抱へて気が少し変になる。中庭で側目もふらず機織して居るのが、十四になる長女のお浅。小さい娘の身に一家の安危を負担して居る。縁先には九歳の新三郎と六歳のおい二人が、紅葉のやうな手に繩をなつて居る。お浅は学校へ行く年でありながら、母親代りに立働き、夜が明けると直ぐ織り始めて、毎夜十二時過ぎまで織りつゞける。元は一町近くの百姓であつたものを」「船津川百七十四番地、鈴木島吉(三十一)女房おえい(二十九)に両親との四人暮し。父は末吉(五十五)母はおなか(六十二)と言ふ。老母おなかは元来酒を嗜《たしな》む所に、近年は痰《たん》が起つて夜分眠られぬ。すると島吉が、老母の好きな酒を飲ませる。酒を飲むと一時痰が納まつて苦痛を忘れると云ふ。近隣の人の言ふには、島吉さんが毎日々々きまつた時刻に隣村へ酒買に行く。それで私共は、島吉さんが通るから正午だんべえと言ふ位。困窮の中から毎日五銭づゝ酒を買つては母に飲ませる。我等が尋ねた時は、丁度午時で島吉が帰つて来て火を焚いて居たが、其の焚火の料と云ふは、女房が渡良瀬へ膝まで浸つて、浮木を拾つて積んで置くのだと云ふ。此の木を焚くと、銅のやうな色の灰が残り、現に其煙で天井の蠅が落ちる。毒だとは思ひながらも仕方がないから、フウと口で吹いては火を起す。此家は元農の外に漁業をも営んで居たが、鉱毒以来、両方共無一物になつてしまひ、拠なく、今は紡車の撚糸をして、糸より細い煙を立てて居る」[#ここで字下げ終わり]かう言ふ話を聴きながら、戸毎々々に廻はる。潮田さんは折々雪中に彳《たゝず》んでは、目を閉ぢて黙祷して居た。翁は堪へることが出来ず、真赤になつて叫んだ。『田中正造が、きつと敵打ちしてあげますぞツ』かう憤つては、大きな拳固で、霰のやうな涙を払つた。

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