職業や宗教的思想

 私は御覧の通り立派な者でも何でもないが好い友達があったためにこの夏も御陰で涼しい白地の服を着て赤い衣を着ることだけは免れている。今これらのことを考えてみると非常に難有《ありがたい》心持がする。私は十四、五歳の頃五、六人の親しい友があったが皆相応な地位を保っている。これらの旧友に会うと、職業や宗教的思想、人生の観方《みかた》などこそ随分違っているが心持は少しも変らぬ。及ばずながら共に共に天父の意を尽そうというのである。此の中には思想が深くて学問の広い内村鑑三君や、三宅君の如き兄分もいる。これらの人たちと上野の大仏あたりを夜の十二時頃散歩しながら豌豆を買って立ち喰いをしながら話し合ったことも、今日から見れば非常に懐かしい、今私が赤い衣物も着ずして三度の食事を無事に喰べて行けるのも皆これがためだと思って窃《ひそか》に感謝している。(笑声起る) しかし一方から考えてみると吾らはまた友たるに恥じぬ人格と人に愛せらるるだけの価値を有するということも必要である[#「しかし一方から考えてみると吾らはまた友たるに恥じぬ人格と人に愛せらるるだけの価値を有するということも必要である」に傍点]。さっきから度々いってる通り互に気が合うというようなそんな低い程度の友ではなく直に天父の意志を了解するものが欲しいのだ。といってもどうせ弱点のある人間だ。世の中にそう神様のように完全なものばかりはいない。否何れ人間と生れた以上は不完全なものにきまっている。だから人の弱点を探がさないで善い所のみをみる、キリストの御友達であったピーター、ヂョン、ゼームスの如き皆全然相反せる性格の人であったが、しかし或る点――天父の意志を了解せりという――点に於ては同一であった。この点に於て立派な真の友情が成り立ったのである。だから気に合うとか気に合わぬとかいうことは友情の上に於てさして重大な意味を持ってはいない、ただ天父の意志を了解せりや否やが大事である。此処に眉間に疵を有《も》ってる男があるとする。何だかいやだ、気に喰わないような心持がする。これは浅間《あさま》しいようだが実際である。しかしその男が軍人で、さる激戦の時、砲煙弾雨を犯して戦友を救わんがために紀念として与えられた疵であると知ったら如何《どう》だろう。そんな高尚な意味のものなら三つも四つも欲しくなるに違いない。心の疵だって左様だ。あの人は妙に心がねじけている。

— posted by id at 06:15 pm  

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