「望みも恐れも共におなじ」

「望みも恐れも共におなじ」というのが讃美歌の中にある。これは神に依ていつくしめるものは目的も希望《のぞみ》も恐懼《おそれ》も同一になってしまう。ただ気が合うといっても何だか茫漠としたもので男ならその調子で一杯やろうというかも知れぬ。女ならきっとリボン会位は始まるだろう。だから真にキリストの意志を了解した愛でなければ頼むには足らぬ。「望みも恐れも目的もただ一つとなる」、これが所謂真のキリスト教的愛である。私はこれを名けて、ハイレベルヴァルチュー High-level Virtue という。といってもこれは熟した語ではない。ただ私が思い付いた一種の造語にすぎないものだからちょっと此処に断りをしておく。 幾度も前に繰り返したように単に気が合うというのみでは到底真の友とはいえぬ、謂わば水面の低いローレベルのヴァルチューである。男子などには殊にこの交りが多い。互に胸襟を開くなどいって一杯飲み合うことなどがある。しかしこれらは酒興に乗じて互に弱点をさらけだす位が関の山で何も得るところはない。即ち低き水面の友である。こんな友誼なら掬摸児《キンチャクキリ》などにも能くある。一杯飲んで怪しからぬ態《ざま》をしてこうだああだと喋り出しては喧嘩になる。がまた感心なことには直《す》ぐ仲直りをする。これ互に暗い所があって弱点を握り合っているので仕方がない。相方幾分ずつ疑懼の念が動いてきて元の通り仲よしになる。謂わば罪が彼らの媒介をするのだ。だから親に孝養を尽すなどいうと彼らの仲間には嫌われる。あわれな穢《けがら》わしい友達じゃないか。で私どもは真の友として天父の意思を了解しているや否やを標準とせなければならぬ。 世の中には随分口先きのみ達者で実行の鈍いものがある。が口先きだけでも賢いのはせめてもの取り所だ。なぜならば立派なことをいやしくも口外した以上、そう下卑《げび》た行の出来るはずはないから、まあ幾分か恕してやるべきである。世にはまた偽小人[#「偽小人」に傍点]というものがあって一見小人のように別にえらいことも何も言わぬが着々実行の上では立派な礼儀に叶った行為をなしている。元よりこの種の人は偽君子ほど多くはない。偽君子千人の中にせめて一人位なものであろう。世の中に多いものは小人と偽君子だ。口先では如何にも聖哲のようなことをいっているが実行は十分の一も出来ぬ。しかし十遍に一度位実行の出来るのはあるいは口先きで立派なことを言った結果であるのかも知れぬ。人には相当に廉恥心という者が具《そなわ》ってるから自分の言った語に対しても行わねばならぬという場合も起って来るものである。だから実際には高き程度な友が実現せられないにしても互に話し合って置くことは至極大切なことと思う。

— posted by id at 06:15 pm  

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