キリストの愛

これが真のフレンド friend で独乙《ドイツ》のいわゆるフロインド Freund である。フロイ即ち愛があって此処《ここ》に始めて友――真の意味に於ける――友が出来るのである。 漸く本題にはいりかけたが是《これ》が即ちキリストの愛である。先ずヨハネ伝第十五章を見給え。[#ここから2字下げ]今より後われ爾曹《なんじら》を僕《しもべ》と称《いわ》ず。そは僕は其の主の行《なす》ことを知らざれば也。我さきに爾曹を友と呼べり。我爾曹に我が父より聞きし所のことを尽く告《つげ》しに縁《よ》る。[#ここで字下げ終わり] 面白い有難い聖句である。自分を先生といわず旦那と呼ばず主人と思わずして師弟の関係以外君臣上下の階級を打破しようという。自分が僕《しもべ》の地位に下るか、僕《しもべ》を自分の位置に高めるか何《いず》れにしても並行さして友と呼だキリストは豪《えら》いに相違ない。なぜか、キリストは天父より聞いたすべてのことを与え尽したからである。僕とは一体何だろう。自己の意志(Free-Will)を持たないもの、換言すれば主君の命令を絶対に遵奉《じゅんぽう》すべきものこれである、右せよ、諾《はい》。左向け、諾《はい》。僕《しもべ》の理想はこれだ。グリース有名の哲学者エピクテータス(Epictetus)は名前がちとおかしいが奴隷であった。その主人というのは不幸にもつまらない男で能く人を苛《いじ》める打つ。足を引っ張る。こんなことをして楽しんでいる男だった。或る日|切《しき》りにエピクテータスが足を引っ張り捩《ね》じまわしては喜でいる。でエピクテータスはちと痛いので「そうなさると私の脚《あし》は折れますよ」といった。その中《うち》に主人はますます脚をねじまわしたので果して彼れの脚は折れてしまった。でエピクテータスはさもこそといわんばかりの顔付きで「そうら見て御覧なさい。今が今までそう言っていたじゃありませんか」と一向平気なものであった。さすがは哲学者である。かくの如く何もかも主人まかせで少しの意志|些《いささか》の自由をも有せないものが僕《しもべ》である。無論今日ではこの種の奴隷はいない。がしかし少しはいる。睡《ねむ》くても主人が手を拍《う》てば諾《はい》といって立たねばならぬ。空腹でも食事中でも、寒くっても熱くっても主人の命《めい》なら進《すすん》でこれを弁ぜねばならない。これらも可愛そうに人並で充分眠って旨《うま》いものを喰《た》べてみたいに違いない。しかしそんな自由は出来ない。主人の仰せに服従せねばならない。キリストが弟子に教え給うにも始めは一種の命令であった。ところがこれからはみんな天父の教えを知悉したのだから僕《しもべ》とはいわぬ友と呼ぶと仰宣《おっしゃ》ったのだ。こう考えてくると、同じ目的を以て同じ天父の意志を理解する者、これが真の友達でキリストが友に対する精神であった。語を換えていえば己れを標準にとらず天父を以て唯一のスタンダードとしこれを以て自己を解しているものが真の友である。

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