友を呼び相手を求むる者

してみるとアダムと名称を与えた以上、既にイブは神の御心に生きていたのかも知れぬ。とにかく人間というものは孤独では行けない。友を呼び相手を求むる者である。 が此処《ここ》に一ツ注意しておきたいことは、西洋の家庭が夫婦を意味すると同時に日本の家庭は親子である[#「西洋の家庭が夫婦を意味すると同時に日本の家庭は親子である」に傍点]。これは至極大事なことで間違えてもらっては困る。西洋で一般にホームだとかファミリーだとかいっているのは夫婦であって親子を指したのではない。これに反して日本で家庭というと親子であって夫婦を指して言ったのではない。だから西洋のホームは二本立で同等であるが日本の家庭は上下があってその間に差別が付いている。夫婦が出来た以前アダムは天なる父とただ二人でいたがイブが出来てからは友達が一人|加《くわわ》って二本立のものとなった。要するに道徳の元は父に対する孝である。夫婦のためには友である。此処が今日お話しようとする題目なのだ。 勿論人類社会には友誼という者があるがこれは畢竟《ひっきょう》するに道徳進化の最初の徳である。最もプリミティーブな元始的な道徳である。故に人は何処までも社交的性質のもので友なくては生存するわけには行かぬ。昔しロビンソン、クルッソーという物好《ものす》き男がいて淋しい孤島に人間がいないので遂には犬を友人に貰った。また鸚鵡《おうむ》を友として僅に心の寂寞を慰めた。ロビンソンに限らず総ての人類がそうなのだ。牢獄の暗黒界にただ一人淋しく禁錮せられた可憐児は如何《どう》する。ロシアではこの種の物語はいくらもあるが或る国事のために奔走した者が政府の諱忌《きき》に触れて牢屋にぶっこまれた。厚い五、六尺もあろうと思われる壁の中に――真暗《まっくら》な咫尺《しせき》も弁ぜぬ――獄舎の中に何年何十年と捕われていた時に彼は何を友としたか。暗闇《くらやみ》にちょろちょろ[#「ちょろちょろ」に傍点]出てくる鼠を友人としたのだ。自分の生命を支うるに足らぬ粗末な黒パンの一片を割《さ》いて鼠に与えて手なずけるのだ。こんな風で十年二十年の後牢屋を出て世の中に来ると全く言語も忘れ口も動かなかったとは彼の地の歴史に能く記してあることだ。人は如何なる場所、如何なる境遇にあっても、友を求むるの情は止まぬ。こんな例は数限りなくあるがとにかく人には友誼というものがなくてはならぬ。死ぬるまで変らぬ確固の一念がなくてはならぬと思う。 

— posted by id at 06:12 pm  

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